愛情の量には限界があるのかもしれない
と、最近思うようになった。友達でも恋人でも夫婦でも親子でも、どんな関係でも愛情の総量って減っていくものなのかもしれない。
相手が嫌だと思うことが増える度に、次第に愛情は減っていくんだろうなと思う。
「人が嫌だと思うことはしない」なんて当たり前のことだしわかっているはずなのに、どうしても自分の感情を優先してしまったり、感情を抑えきれずに八つ当たりしてしまったりするのは仕方がないことなのかもしれない。
けど、それが「しょうがない」で許される回数というのは限られていて、いつの間にか相手に対して100あった気持ちが底をついてしまうんだろうなと思う。
相手が許してくれること=リセットではない
相手が不快に思うことをしたとして、自分の言動が悪かったことを相手に謝罪するのは人として大切。というか当たり前。
今まで私は、自分が謝って相手がいつも通り接してくれることで、「あぁ、機嫌なおしてくれた」「許してくれたんだ」と思っていたけど、そうではないということに気づいた。
確かに、謝ることで険悪なムードになることは一旦は避けることができる。
でもそれは、相手が空気を読んでくれているというだけであって、それまで通りの愛情を相手に対して持っているかどうかと言われると話は別な気がする。
恋人だから、夫婦だから絶え間なく相手が自分に100の愛情を持ってくれているとは限らない。
相手に「直した方がいいよ」と注意されて直そうと思ってもなかなか直らないのは、本質を理解できていないからなんだろうと思う。
なぜ、自分のどんな言動がいけなかったのか、同じ失敗を繰り返さないためにどうすれば良いのか、自分のどんな部分を改めれば良いのかをちゃんと理解・把握できていないと、結局同じことを繰り返してしまう。
仏の顔も三度までということわざがあるように、いくら優しい人でも何でも許してくれる人でも、相手が嫌だと思うことを何度もしていたらそのうち愛想を尽かされてしまう。
「自分がされて嫌なことは人にしない」とよくいうけど、結局は基準が自分になっているからちょっと違う気がする。「相手が嫌なことは絶対にしない」というのが正しのかなぁと思う。
常に相手にとって特別な存在でいられるとは限らない
私は、結婚すればずっと愛情を与えてくれる自分の居場所ができると思っていたけど、違うのかもしれないと思うようになった。
実際、私の両親も親戚も離婚しているし。
どんな関係にせよ親しき中にも礼儀ありで、相手のことを思う気持ちや感謝の気持ちが大切なのよね。
より良い関係を築けるように常に人の気持ちを考えることを意識して、自分の振る舞いや言動には気をつけないといけないなぁと思う。
どんなにかけがえのない大切な存在だと思っていた相手だったとしても、一度離れてしまった気持ちはそう簡単に元には戻らない。
失ってからはじめてその大切さに気づくってよく言うけど、本当にそうだと思う。
今ある幸せがこの先もずっと続く保証なんてどこにもないし、今日ある生活が明日もあるとは限らない。
本当の優しさは目には見えないものなのかも
自分が相手のためだと思ってしたことが、必ずしも相手に喜ばれるとは限らない。
相手が欲しいものを買う、好きなものを作る・与えるというのは、結局優しさの押し売りでしかないのかもしれない。
「こんなにあなたのことを考えてる私」みたいな?
でもそれって表面的には相手のことを思ってるようだけど、本当はただ単に自分を満足させたいだけで、相手の気持ちなんてこれっぽっちも考えられてないんだよなと思う。
昨日食べたいと言ったものを今日もまた食べたいというとは限らないから、常に相手が今何を求めているのか、何を望んでいるのか、とことん相手のことを考えることが大切なのかなと思ったりする。
刹那的に生きるのではなく、これをしたらどうなるのか、相手はどう感じるのか、常に相手の気持ちを尊重できる人間になれる努力をしようと思う。
自分の代わりなんていくらでもいるからこそ、自分が大切だと思う人のことだけは何があっても大切にできる人間でいたい。